人物

貝殻

昭和シェル石油(現在、出光昭和シェル)のトレードマークは貝殻ですが、何故、貝殻がトレードマークなのか、そして、それはどこで採れた貝殻なのか。皆さんは考えたことがあるでしょうか。今日はそんな話について書きます。

昔、マーカス・サミュエル(1853~1927 Marcus Samuel,1st Viscount Bearsted 後の初代ベアステッド子爵)という幼少期をイギリスで過ごしたユダヤ人がいました。彼の父親は、雑貨を荷車に積んでロンドンの街頭を売り歩く雑貨商を営んでいました。
マーカスは11人兄弟の10番目の子供でしたが学校にはあまりなじめませんでした。
マーカスが19歳の時、父親は彼を修行させようと思い、アジアを旅するために、客船の三等客室の切符をプレゼントしました。
その際、2つの条件をつけました。毎週金曜日には母親に手紙を書くこと、そして、この旅行中に、将来に役立つ商売のアイディアを考えておくことでした。
船はインド、シンガポール、フィリピン、シャム(現在のタイ)、香港、中国に寄港しましたが、マーカスは横浜で降りました。
ふところには5ポンドの金しかなく、当時の日本は長年の鎖国を解いて外国人が居留し始めた頃で、東京、横浜合わせて数百人程度しか外国人は住んでいなかったそうです。当然ながらマーカスの友人・知人は一人もいませんでした。
マーカスは湘南海岸の朽ち果てた小屋で数日を過ごしました。ある日、マーカスは漁師達が砂浜を掘っているのを見ました。(何をしているのだろう)と思って観察すると、漁師達は貝を採っているのだということがわかりました。そのうちの一人が家に帰るのをつけていったマーカスは、彼が貝を食用に供するために採っていたが、貝殻は捨てていることに気付きました。
マーカスは捨てられた貝殻を集めて、ボタンやカフスボタン、子供用のオモチャのシャベルや玩具を作ることを思いつき、実際に作り始めました。そして、大型の貝殻の内側に漆を塗って、ドアや卓上の飾りとして名前を入れたり、様々な美しい貝を施した細工物や、綺麗な貝殻を散りばめた箱も作りました。当時の日本にすでにあった民芸品を真似たのです。
マーカスはそれらの品々を、ロンドンの父親に送りました。しばらくすると父から返事が来て、手押し車に乗せて町を売り歩いてみたところ、ボタンや子供用のオモチャや貝の名札は売れなかったが、黒い漆塗りの貝殻を散りばめた小箱はとても売れた、とのことでした。その小箱は、居間にあるピアノやコーヒーテーブルの上に置いて、タバコや小物を収めるのに御洒落で便利だったのです。
マーカスが日本から送る商品が大当たりしたため、父親は手押し車の引き売りをやめて、東洋からの物産を売る一軒の店舗を構えるまでになりました。
マーカスは25歳で、横浜でマーカス・サミュエル商会を創業しました。

次に、マーカスは石油の販売をしようと思い立ちました。その当時、世界では石油時代が幕を開けつつあり、アメリカではロックフェラーが石油事業に取り組み、ロシアはロシア国内の油田を開発していました。日本や中国は暖房用の燃料として炭しか使用していませんでした。
マーカスは照明と暖房用のケロシンが日本と中国で需要が増えると考え、販売することにしました。ロシアから買い付けることを決定しました。
しかし、ここで一つ問題がありました。当時、石油を運ぶのには5ガロン缶が用いられていましたが、船が汚れるので船主達にあまり歓迎されていませんでした。船を洗うのに手間と費用がかかり、缶を縄でゆわえる必要があったので大変な労働だったのです。
そこでマーカスは船全体が一つの油槽である石油専門の運搬船を作ってはどうか、と閃きました。今日、私達がタンカーと呼んでいる船です。マーカスは造船の専門家を招いて設計図を作らせ、イギリスの造船所に発注しました。そしてついに、世界初のタンカーが建造されて進水しました。
このことからわかるように、タンカーは一つの発明だったのです。
マーカスはタンカーの一号船に『ミュレックス(アッキ貝)』と命名しました。アッキ貝は日本の海辺で採れる代表的な貝です。彼は日本の湘南で貝を拾って加工し、イギリスに送った自分のビジネスの黎明期を忘れまいとして、そう名付けたのです。
この石油ビジネスはマーカスが予測したよりも、大変な成功を収めました。というのも、石油は照明や暖房のみならず、はるかに需要が拡大していったからです。
やがてマーカスは、石油の供給をロシアのみに依存していることは危険であると思うようになりました。ロシアではユダヤ人に対する迫害が強く、ロシア政府がロシア原産の石油を、外国船が運ぶことを禁止する気配を示し始めたからです。
そこで彼は、新たな油田としてインドネシアに着目しました。なかなか掘り当てなかったのでマーカスは気を揉んでいましたが、最後に当時のインドネシアで最大の埋蔵量を誇る油田を掘り当てました。マーカスは努力の人でありましたが、同時に強運の持ち主でした。
マーカスは『ミュレックス』の成功を皮切りに8隻のタンカー船隊を組織しました。1897年、マーカスはシェル・トランスポート・アンド・トレーディング会社を設立、本社を横浜の元町に置きました。3年後、社名をライジング・サン・ペトロリウム会社に変更しました。「日、出ずる処の石油」というわけです。
マーカスは「ナポレオン・オブ・オイル」とか「ヨーロッパのロックフェラー」と呼ばれ、世界的大富豪になりました。

しかし、彼の成功はイギリス人社会では羨望と嫉妬の眼差しを向けられました。そこでマーカスは会社をオランダとイギリスの合弁会社に売却することを決意しました。これにより、彼の会社は「ロイヤル・ダッチ・シェル」に社名を変更しました。
会社の売却に当たって、マーカスはいくつかの条件を提示しました。一つはマーカスの血筋の者を役員に迎えること、もう一つは発祥の歴史を証しするものとして、全支店で貝殻のロゴマークを使用することです。
シェル石油はこの条件を守り今日も全支店で貝殻のマークを掲げ、ロイヤル・ダッチ・シェル社のタンカーには船名を貝から採るという慣例を守っています。ユダヤ人は歴史と伝統を重んじる民族なのです。

石油販売から撤退した後、マーカスはイギリスへ戻り、1902年にロンドン市長となりました。市長の就任式のパレードでは、自分の馬車に林董(ただす)駐英公使を同席させました。
2台目の馬車にはマーカスの夫人と林公使の夫人が同席しました。外国の公使をパレードで一人だけ同席させるというのは異例のことでした。マーカスがいかに日本に恩義を感じていたかを示すエピソードです。

マーカス・サミュエルの物語は、今日、神奈川県のある大学の教授が自分の講座を受けた学生達が社会に巣立つはなむけの言葉として、講義の中で紹介しているそうです。

(1902年、日英同盟に際してマーカス・サミュエルの名前は表立っては出てこないが、彼の大いなる尽力があったのではないかと推測されている。尚、1948年、ロイヤル・ダッチ・シェルはシェル石油株式会社に商号を変更。1985年、昭和石油がシェル石油を合併し、商号を昭和シェル石油株式会社に変更。2019年、出光興産と昭和シェル石油は経営統合し、昭和シェル石油は出光興産の完全子会社となった。)