人物

山田方谷

山田方谷(1805~1877)は幕末の備中松山藩(現在の岡山県)の財政を8年で立て直した陽明学者、財政家、政治家です。

現在の貨幣価値に換算すると、藩の借金が200億円ほどあったのを完済し、さらに200億円蓄財したそうです。もっと大きく見積もる算出方法もあります。

方谷を生涯の師として仰いだ人物に河井継之助がいます。

河井継之助も越後長岡藩の藩政改革を断行したことで有名ですが、先生だった方谷のことは、あまり知られていないように思います。

弟子の継之助は長岡藩を率いて官軍に対して徹底抗戦します。継之助の構想では、長岡藩は倒幕、佐幕いずれにも与しない、スイスのような永世独立国にしようと考えていたようなのですが、官軍の首脳陣にはそのような洒落た思想を理解する人は皆無に等しく、「味方で無い者は敵」と見なしたようで長岡藩に追し寄せて来ました。そこで「やむなし」と決意し、戊辰戦争でも最も激戦地の一つとなるのです。

これに対して備中松山藩は板倉勝静の元、領民の命を守るために無血開城します。

武士の面目を保つことと、領民の命を守ることと、どちらが大事なのかというテーマなのですが、方谷は領民の命を取りました。

そのためでしょうか、明治の世となってから、木戸孝允や大久保利通から再三に渡る出仕要請がなされたにもかかわらず、方谷は最後まで新政府には仕えませんでした。

もし、方谷が明治政府でその手腕を発揮していれば、明治はもっと豊かになっていたのではないかと推測する人もいます。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」と言いますが、「汝、賊軍なり」と言われた人々の胸中を察したことがあるでしょうか。

『壬生義士伝』という浅田次郎氏の小説があり、映画にもなりました。新選組隊士の吉村貫十郎は吝嗇な使い手という奇妙な人物だったのですが、官軍が錦の御旗を持って現れ、「勅命により賊軍を成敗致す」と大音声で呼ばわりました。

その時、いわゆる「賊軍方」は愕然とするわけです。

自分達は賊軍なのか、と。

人それぞれ、筋の通し方というものがあると思っているのですが、方谷は明治政府に仕えないことをもって筋を通したのではないか。

私はそのように思えてなりません。