人物

天が志を試す時

山田方谷の家は元々、武士だったのですが、祖父の代で没落し、農業と菜種油の販売を営むようになったそうです。

方谷の両親は方谷に対して、お家の再興の期待をかけていました。

聡明だった方谷は、学問で身を立て、やがては武士になろうと密かに期していました。

しかし、方谷15歳の時に母が、16歳の時に父が相次いで亡くなります。

長男だった方谷は、家業を継ぐことを決意し、農業と菜種油の販売を生業としました。

その時点では、方谷は学業の道を絶たれ、無念だったかもしれない。けれども、これが結果的には、方谷の学問を実学たらしめたのです。

エリート街道を進む者には、ともすれば世間の実情を知らずに過ごしてしまう人もいます。

田中角栄が指摘していたことですが、「近頃は、農政に携わる役人で、田圃に一回も入ったことが無いというような者もいる」と言っていました。

あるいは戦争中の軍事官僚も、「食料は戦地で調達すれば良い」と楽観しておりましたが、そのためにガダルカナル島は「飢島」となってしまいました。

エリートはエリートで必要なのだとは思いますが、そのような集団に時折、一人でも二人でも良いので現場を知っている人がいるということは、非常に大事なのだと思います。

方谷21歳の時、刻苦勉励している方谷の評判を聞き、藩主の板倉勝職(かつつね)より御沙汰書を賜ります。

二人扶持の支給と藩校への出入りを許可する、という内容でした。

藩校・有終館は本来、武士の子弟しか学ぶことが出来なかったのですが、特別に学ぶことを許されたのです。

人知れず努力していると、やはり世間は放ってはおかないものです。