人物

佐藤一斎との出会い

山田方谷は人生において3度の京都遊学をし、次いで江戸での遊学も許されます。

江戸での先生は佐藤一斎でした。

佐藤一斎は昌平黌(東京大学の前身)の塾長であり、その学問は「陽朱陰王」と評されました。つまり、表向きは朱子学者だが、陽明学にも深い造詣があり、弟子には陽明学の神髄を伝えようとしていたようです。

方谷と同時期に学んだ人物に佐久間象山がいます。方谷と象山は「佐派の二傑」と呼ばれたそうです。

二人は他の塾生達が寝静まった後に毎夜議論を重ねたそうです。

眠りを妨げられた塾生達が一斎に苦情を申し出ると、誰と誰の議論によって、そのような事態になっておるかと問い、方谷と象山であることを知ると、「そうか…。そのままにいたしておけ」と申し渡したそうです。

俊秀の二人の学問を妨げてはならないという塾長の判断だったのでしょう。

西郷隆盛は佐藤一斎に私淑し、一斎の著作である『言志四録』の抄本を自ら作り、座右の書としました。

これが後に『西郷南洲遺訓』としてまとめられることになります。

西郷は戊辰戦争までの革命家としての人生と、その後の哲人政治家、もしくは思想家としての人生と、前後にわけて考えることが出来ると思いますが、その思想的バックボーンには佐藤一斎の教えがあったのです。