思想

儒教から読み解く明治維新

私は長らく、明治維新とは合理的でなかった時代を合理的時代に替える転換点なのだと理解してきました。

西洋的合理文明を身に纏った欧米列強の出現を前にしてなすすべが無かった幕末日本は、幕府を筆頭に雄藩も洋式調練を始め、軍隊の近代化を推し進めました。

蘭学の徒であった勝海舟が活躍したことを考えれば、確かに合理性を求めた結果、幕府は滅んでいった、と解析出来るし、それが正当な解釈であると思っていました。

しかし、それだけでは明治維新の意味を本当に理解したとは言えないのではないか。

最近、そのような問題意識を持つようになりました。

山田方谷の師であった佐藤一斎の教えを、直接的にせよ間接的にせよ、幕末の志士達はほとんどの者が学んでいます。

一斎の直弟子としては山田方谷と佐久間象山がいます。方谷の弟子が河井継之助であり、象山の弟子は勝海舟と吉田松陰です。

又、西郷隆盛は一斎の著作である『言志四録』の抄本を自ら作り、座右の書としました。

これらのことから考えると、江戸時代は儒学を尊んだ時代ではあったが、「古の聖賢の道に立ち戻ろう」としたのが明治維新ではなかったか、という一つの仮説が成立するのです。

GHQが施した占領政策により、戦前の日本人が尊んできた価値観はことごとく無価値か無意味であるかのような扱いをされたと認識しています。

だからなのでしょうか、道徳を嫌う人は今でも少なからずいます。

しかし、人間が長年に渡って大切にしてきたものが、ある日突然、価値を失ってしまうようなことが本当にあり得るのか、御一同には改めて吟味していただきたい。

ユダヤ人は、バビロン捕囚の憂き目にあった歴史を忘れまいとして、一年に一回は苦い野菜を食べているのです。

バビロン捕囚は紀元前597年の出来事ですから、2617年前の話です。それをあたかも昨日の出来事であるかのようにユダヤ人は話す、と言います。

歴史が持つ重み、そして歴史が持つ力を再認識していただきたいと思います。