人物

哀しみとギャグ

「ギャグ漫画の王様」と言われた赤塚不二夫氏は、中華民国との国境地帯に近い満州(現中国東北部)で生まれました。
父は関東軍憲兵隊出身で、中国との国境地帯で中国人の慰撫と諜報活動を行う特務機関員でした。
非情に厳しい人物でしたが正義感に溢れており、現地の中国人に人として平等に接し、
子供達にもそのように教えました。そして食べ物を現地の人々に分け与えていました。

中国人も「お礼に」と言って食べ物を持ってきてくれたのですが、妻や子供達には「絶対に受け取らないように」と諭していました。
「彼らは食料が十分でない中から私達にお礼として持ってきているのだ。それが分からない私達であってはならない」とのことでした。

終戦後、隣に住んでいた日本人一家は中国人の報復に会い、皆殺しにされてしまいました。しかし、赤塚家には一切手出ししませんでした。食べ物を分け与えてくれたり、平等に接してくれたことを、皆憶えていたのでしょう。

日本に引き揚げてくるとほどなく、妹が亡くなりました。又、日本人は赤塚氏のことを「余所者」と感じていることもわかりました。

しかし、絵を描くと教師が半ば驚いたような表情を見せ、級友達も次第に認めてくれるようになったので、「自分の生きる道は画業だ」という自覚はおぼろげながらあったようです。

漫画家として成功した後、右目の視力を失っている青年、後のタモリ氏を居候として預かり、自家用車も自由に使っていいという弟子としては過分の待遇で世に送り出しました。

赤塚氏の母が同じく右目の視力を失っていたので、どことなく他人とは思えなかったのかもしれません。

バカボンのパパの「これでいいのだ」という決め台詞ですが、これは老荘思想の「現状をあるがままに肯定し、そこから世の中を少しでも進歩させていく」という考えを表しているのだと言われています。

英語で言うならLet it beですね。