思想

意見の対立は悪か?

タルムードによると、古代のイスラエルにおける裁判では、陪審員の意見が全員一致となった場合、その意見を採択せずに、審議をやり直したそうです。

これは、意見が一致することなどあり得ないという現実主義的発想に基づくそうです。

このような話は、ドラッカーの著作にも出てきます。

ある高名な経営者が、自社の取締役会での議題が満場一致で結論が出た場合に、その結論を採択せずに、もう一度議論することを要請したそうです。

彼は、「それでは議論を尽くしたとは言えない」と考えたからだそうです。

日本人は多くの場合、そもそも意見が対立することを好みませんし、一たび意見が対立すると、そこから事態が泥沼化すると言いましょうか、収斂させていくことが苦手な印象を受けます。

戦争についても同じことが言えそうです。かつての日本人は一旦有事となれば、類が無いほど勇敢に戦ったのですが、開戦となると、この世の終わりを迎えたかのような憂いと覚悟を持っていたように思います。

しかし、ヨーロッパの辞書では平和とは、「戦争していない状態の事」と書かれており、つまり戦争とは特別な事ではなく、いつ起きてもおかしくない事と捉えていたようです。

実際、外交の場で議論によって決着がつかない場合に国家が取りうる行動として権利が保障されている事柄、それが戦争です。

タルムードは論争の書と呼ばれます。Aという案とBという案があり、どちらを採用するかという選択があります。そして両者の意見の折衷案という解決法もあります。さらに、そもそもその仕事をしなかったらどうなるかという「その仕事は本当に必要ですか?」という問いかけもあります。

いずれにしても、この不完全な世界を自分の仕事によって、少しでも完全なものに近づけるという進歩的世界観がユダヤ人の行動原理になっているのだそうです。

共産主義の提唱者であるカール・マルクスもユダヤ人だそうですね。確かお父さんの代でキリスト教に改宗したとか。

マーヴィン・トケイヤー氏は、マルクスの思想は結論として間違っていたかもしれないが、彼が貧しい人々を救おうとしたことや、この世界を少しでもより良いものにしようという使命感を持っていたであろうことが、自分には痛いほどよくわかると書いていたことが印象に残っています。

私は長いこと、共産主義は神仏の思想からほど遠い思想であると思っていたのですが、そのような意見もあることを知ると、世界の見方ががらりと変わってくることを感じています。