思想

士であるということ

『曹操の人望力』という本によりますと、後漢末期の宮廷での派閥争いに「外戚」、「宦官」、「士大夫」という群像が出てまいります。

「外戚」は幼い皇帝を擁立する親族の男性ですね。母君の兄である、とか。

「宦官」は男性機能を絶たれた人々です。古代中国の極刑の一つに「宮」という刑罰がありまして、元来は「宮」によって男性機能を絶たれた者が奴隷として後宮において皇帝の世話をする役として用いられたのが始まりです。

一般男性は後宮に立ち入ることは出来なかったので、皇帝の生殺与奪の権を握っているのは自分達である、ということで次第に権力を得るようになり、後の時代には自ら志願して宦官になる者も出てきました。

曹操の祖父である曹騰は、自ら志願して宦官となった人です。勉強は出来るが食べていくのが難しいほど貧しい家の子が宦官となることが多く、曹騰の場合もそうでした。

「士大夫」というのは儒教の教えに則った経国済民の抱負を持った人達のことです。いわば宮廷での第三勢力として台頭してきたのですが、何度か弾圧に会っています。

諸子百家と言われるほど、様々な思想的背景を持った人々が中国大陸では活躍しましたが、最終的には儒教が正統な学問として世間に認知されるに至りました。

さて、曹操を世に出した曹家です。

宦官の家が何故一家を構えることが出来たのか、素朴な疑問をお持ちの方もいらっしゃるかと思います。

途中で法律が変わり、養子を迎えれば、宦官も家を構えることが出来るようになったそうです。

曹操の父、曹嵩は養子として曹家に入りました。

曹騰は曹嵩のために大量の賄賂を投じたので、曹嵩は「大尉(軍事担当宰相)」にまで出世しました。

このため、若き日の曹操は何不自由なく暮らせましたが、鬱屈した思いからか、任侠の徒と交わるようになりました。

今で言うと不良少年ということでしょうか。その時の仲間に、後に戦うこととなる袁紹もいた、というのが何やら不思議な巡りあわせですね。

若き日の曹操が出会った人物に、橋玄という人がいます。

士大夫として有名であり、清貧のままに亡くなったと伝えられています。

その橋玄が曹操に対して、「天下の平安は君の双肩にかかっている。行く末、妻子をよろしく頼みたい」と言ったそうです。

この橋玄との出会いによって、曹操は単なる不良のままで終わらなかったのです。