人物

三井高利

三井家の家伝によりますと、藤原道長の六男である藤原長家の五代孫にあたる藤原信生が近江国に土着して武士となったのが三井家の始まりであるそうです。

その後、12代三井乗定が近江国守護大名の六角氏から養子として高久を迎え、以降は六角氏に仕えるのですが、高久の5代孫にあたる高安の時代に、近江に侵入した織田信長勢に敗れ、以後は松坂に居住するようになります。

高安の息子である高俊は刀を捨て、松坂で質屋や酒・味噌を扱う商家を始めました。

高俊の四男である高利は江戸に出て呉服店を開業し、三井財閥の礎を築きました。

一説によると高俊はあまり商売に関心が無く、店を取り仕切っていたのは妻である殊法であるといわれています。

殊法は質流れや薄利多売といった、新しい商売の仕方を採用し、家業を発展させていきます。

高俊の長男である俊次は寛永年間初め頃に江戸に小間物店「越後屋」を開きました。

高利は14歳で江戸に出て兄の呉服店で奉公を始めました。手代同様に働きながら経験を積み、江戸本町四丁目の店を任されるほどになりました。

1673年、俊次の死後に高利は母の許可を得て江戸本町一丁目に呉服店「越後屋」を出店しました。

自ら江戸に出ることはありませんでしたが、長男の高平を江戸に送り込み、大いに店を繁盛させました。

当時の呉服店は代金はツケが原則だったそうですが、高利はそれをやめ、現金掛け値なし(現金払いでの定価販売)と必要分を切り売りする店先売り(店頭販売)を導入し、江戸庶民の心を掴みました。

しかし、それまでの慣習を破る高利の商法は同業者の反感を買い、様々な営業妨害を受けるようになります。

そのため高利は本町一丁目から隣町の駿河町へ店を移動しました。

この頃から、店内の結束強化と他店との区別のために暖簾印として「丸に井桁三」が使用されたそうです。

高利は本拠地を松坂から京都に移していましたが、「越後屋」の売り上げは「釘抜三井家」を抜き去り、1687年に幕府の納戸御用、1689年は元方御用の座を獲得、幕府御用達となりました。

両替商も開始し、1690年に幕府の為替御用に任命されました。

京都と大阪でも両替商を開業して成功し、越後屋は江戸時代屈指の豪商となったのです。

高利は嫡子10人、庶子1人の男子をもうけましたが、自らの死後については兄弟中の「身代一致」を遺言し、身代を総領の指導に基づく兄弟の「共有財産」とすることとしました。

この遺言により三井家は強固な結束を持つ共同組織となり、江戸時代を通じて豪商としての地位を保ち続けました。

高利の長男である高平は高利の遺志を『宋竺遺書』としてまとめました。

その内容を一部抜粋します。

一、人は終生働かねばならぬ。理由なくして隠居し、安逸を貪ってはならぬ。

一、他人を率いる者は業務に精通しなければならぬ。そのためには同族の子弟は丁稚小僧の仕事から見習わせて、習熟するように教育しなければならぬ。

豪商には二つのタイプがあると言われていて、一つは豪遊し、他の事については義理や常識を重んじる、という人と、もう一つはこの世的な享楽には関心を示さず、時に吝嗇とさえいえるほどに蓄財に励むタイプといるそうです。

高利は後者といえそうです。

尚、ロックフェラーが晩年は社会事業に多額の寄付をしたことは有名ですが、高利が社会事業名目の寄付をしたという公式の記録は見当たりません。

お金持ちも、いろいろなのです。