歴史

北条早雲と三浦氏

北条早雲は戦国武将の魁と言われる。

歴史書にその名が登場するのは40歳頃で、それまで何をしていたのか、よくわからない。

関八州を手に入れたのだが、その統治の正統性はどこにもない。

強いて言うなら、領民の支持、ということだろうか。

「乱世の梟雄」と言われたが、年貢がどこよりも安かったので、その領国経営を慕って他国から流れてくる者もあったとか。

伊勢新九郎盛時、というのが彼の名なのだが、剃髪して早雲庵に住んでいたことから、「早雲」と呼ばれるようになった。

ちなみに鎌倉執権の北条氏との血縁ではない。

彼自身は自らを「北条早雲」と名乗ったことはないようだが、その統治に少しでも正統性を感じられるように、後の人々が北条と呼んだらしい。

そんな早雲に最後まで抵抗していたのが三浦氏である。

早雲は三浦氏の討伐に17年の歳月を費やしている。

88歳という、当時としては驚異的な長命だったが、戦えばほぼ必ず勝ったので、人々はそこに神のごとき印象を抱いた。

今で言う「神ってる」て感じかな。

三浦氏を討伐して、関八州の覇者となる。

面白いのは、後北条氏の治世では、跡目争いのお家騒動が一度も起きていないことだ。

後継者をめぐる争いは武田氏も上杉氏も逃れられなかったのに、北条はいつもすんなりと決まった。

武将達の器量を、後代の人々は盛んに議論したが、こういうところを見ても、人生の達人というのは確かにいるのだと思う。