歴史

富山の薬売り

常備薬の販売として「富山の薬売り」は有名ですが、その発祥はいかなるものだったのか。今日はそんなことについて書きます。

『福井モデル』という北陸三県の躍進について分析した名著があるのですが、その著者である藤吉雅春氏は、コンパクト・シティ政策を成功させた富山市を取材していて、あることに気付きました。

それは富山市民が、客観的事実としては日本海に面する青森県から山口県までの地域の中で富山県は工業生産高が日本一であるにもかかわらず、自分達は「貧しい」という認識を持っていたことです。特に古い世代の人ほどそうであった、とのこと。

何故そう思うのかと尋ねたところ、「自分達は加賀藩から虐げられてきたから」という趣旨の答えが返ってきたそうです。

関東に長年住んでいる私には、その辺りの人情の機微が少々わかりづらいのですが、昔の藩どうしの力関係といいますか、そのようなものが当時もあったようでして、私も金沢に行ったことがありますが、都から離れていますがなかなかどうして、非常に煌びやかな印象でした。

かたや加賀百万石として脚光を浴びる土地柄に対して、「そうでない場所」としての富山。おいしい部分は加賀に全部持っていかれ、自分達には何の恩恵もない…そのような意識が長年に渡って培われたようなのです。

しかし、それだけでは終わらないのが歴史というものです。

富山藩二代目藩主の前田正甫(まさとし)は、領民の健康増進のために丸薬を作らせました。これは元々、堺の商人が中国人を招いて作らせた「反魂丹」という丸薬を真似て富山でも作ったのでした。

ある時、参勤交代で江戸城に正甫が滞在した際、他藩の藩主が腹痛を起こしたので、印籠に入れていた「反魂丹」を手渡して飲ませると、たちまちにしてその藩主の激痛が止んだことから、各藩の藩主達の間で評判となり、「是非、我々もその薬を所望したい」と請われました。

そこで正甫は薬の製造と販売に本格的に取り組むことを決断、薬商人に全国を行商する許可を与えました。

それが今日まで続いているのです。

薬売りが富山に持ち帰ったのはお金だけではありません。「情報」です。江戸時代、薩摩藩は他藩との交流を禁じていましたが、唯一、富山藩との交流は許していました。その理由は、富山から来る北前船が蝦夷から昆布を運搬してきたからです。薩摩藩は昆布を中国に密輸して蓄財に成功します。この財力があったからこそ、やがて倒幕に繋がっていくのです。

明治以後、売薬と流通で儲けた富山県は次の産業を育てるべく、水力発電事業に乗り出します。現在でも北陸電力の本社は富山市にあるのは、そのような事情によります。

「サプライチェーン・マネジメント」という概念を経営学者が唱える前から、富山ではそれをごく自然に行っていたのです。